
特徴

邑久カキは虫明カキとも呼ばれ、古くは曙カキの名前で親しまれていました。邑久カキが育つ虫明湾は、瀬戸内海でも有数の美しさを誇る海域です。波風を防ぐ島が多く、非常に穏やかな海で、牡蠣養殖に適しています。牡蠣養殖は環境、水質の良さによって品質が左右されます。邑久町虫明の前浜には、全国名水百選にも選ばれた千種川が流れ込みます。川が海に注ぎ込むところを"汽水"と呼び、豊富な栄養塩類を運んできます。これにより良質な植物性プランクトンが発生し、牡蠣を育むための最高の餌となるのです。"汽水"の恵みによって、邑久カキは牡蠣本来の風味が強く、ふっくらとした牡蠣になり、調理しても身が小さくなりません。

カキ養殖のはじまり

邑久町虫明のカキ養殖の歴史は、1926年(大正15年)まで遡ります。当時、虫明では漁業を中心として生計を立てていた漁師が多く、漁閑期にあたる冬季には収入減に陥っていました。それを見かねた猪又俊雄氏が、冬季の収入源として、カキの養殖を提案したのが始まりです。猪又氏は、新潟から当時の裳掛尋常高等小学校へ代用教員として赴任されました。猪又氏は水産学校出身であったため、虫明水域の漁労の状況、各種試験、調査を重ねた結果、「獲る漁業」から「養殖漁業」に移行すべきだと説き、「カキ」の養殖に重点をおいて熱心に指導されました。在職8年、30歳で他界されましたが、猪又氏の教え子たちは、終戦後、試行錯誤を重ねながら今日の『虫明カキ』の名声をみるに至りました。
『参考:故猪又俊雄氏をしのぶ 山田栄』

カキ養殖の歩み

裳掛村(現在の邑久町)で本格的にカキ養殖が開始されたのは1951年(昭和26年)頃からです。当時の底曳網業者の一部、30名が、広島および宮城のカキ種を導入し、干潟に竹杭を立てて養殖を行う簡易垂下式による養殖を始めました。この年の水揚げは8トンでした。その後次第に規模を拡大し、1965年(昭和40年)からは、前年の就業者数75名から、120名へと一気に増加しました。また、1963年(昭和38年)には簡易垂下式よりも生産効率の良い、いかだ式養殖(本垂下)が出現しました。これにより、1970年代(昭和40年代後半)には簡易垂下式養殖はほとんど行われなくなり、いかだ式本垂下養殖が主流になり、ほぼ現在の養殖設備の形が整いました。写真は1955年(昭和30年)頃の笹小屋でのカキ打ち風景です。
